日記をつける

何か最近更にBlogに書くネタがなくなってきたちらみです。
元々Linuxサーバーの勉強が目的でBlogを設置してみたわけですが、その概念に囚われすぎてましたね。
Blog本来の意義は日記をつけるという事。たまたまそれを皆が見れる状態にあるだけのことですね。
ただ、実際知り合いなどにここのURLを教えてるもんだから、やっぱり多少は気にして書くことになるかな。けど、まぁあまり気にしないことにした[boy/]
元々、中学、高校、大学時代は1日も漏らさず日記をつけてた性なので毎日日記を書くことは苦ではないはず。
ここんところ忙しかった事もあって、そんな気が起こらなかったのかなぁと。
けどまぁ最近は割と落ち着いたので、前みたいにちょこちょこ更新だけはしようかなと思います、内容はどうあれ。
で、同じppblogユーザーの方のBlogをたまに覗かせてもらうわけですが、いつも面白い事を書くなぁというか、俺とは違った目線だなぁと思ってた人のBlogから勝手に引用します。
(すいません、勝手にトラックバックします[ウィンク/])
今回の中学生自殺に関する記事ですが、引用部分に心に響く言葉があったので使わせてもらいます。

人の一生を時計一周24時間に例えたお話がある。
君達は夜中の0時に正にこの世に生まれた。この世に生を受けた。
人の寿命を70歳くらいと考えたら、3年を一時間として、
朝6時、もしくは7時。君達はいまやっと朝を迎えたくらいでしかない。
大学をでて、社会にはいってちょっと経ってもまだまだ朝9時でしかないんだ。
社会ではまだまだ青くて到底使える人材でもない。
楽しみに満ちながら君たちの成長をみてきた君たちのお父さんやお母さんは
君たちが自分の時計で朝の2時や3時の頃、もう既に昼の2時や3時になっていたんだ。
今はどうだろう。もう夕方5時、いや6時を過ぎているかもしれない。
今から彼らはやり直しがきくだろうか。あと6時間も無いのだ。人生は6時間も無いのだ。
日は沈んでしまったのだ。
では君達はどうだろう。みんなまだまだ朝6時や7時じゃないか。
やり直しなんていくらでもきく。何回やり直したって、朝8時くらいでしかないじゃない。
一番悲しいことは、ここで自分の時計を無理やり止めてしまうことなんだ。
可能性はまだまだ秘められているのに、まだまだ一日はこれからなのに、
太陽の燦々《さんさん》とあたる昼に向けて準備をする時間でしかないのに、
自分の時計を止めてしまうことなんだ。

う〜んほんと昨今、若者による自殺が目立ちます。
もっぱら学校側が攻め立てられていたり、隠蔽した事実が発覚した、とかって言われてますが、毎朝そういうニュースを見るたびに「なんだかなぁ」って感じます。
正直言って、自殺した本人や遺族には失礼かもしれませんが、本当に全て学校側のせいで自殺までするもんでしょうか。
私には自殺者や自殺志願者の多くに「死」に対する認識が欠落しているように思えます。携帯電話やインターネット、あらゆるマルチメディアが人間の存在を小さくしていっているのではと感じます。
実在する人間が目の前にいなくても必要な交流ができてしまうからです。
僕らからすれば、それが実現したのはほんと最近で、そうでない時代も少なからず体験して育ってきてます。ところが今の若者は、そういったものが全て揃っているわけで環境自体が違います。
なので、僕がとやかく言うことではないのかもしれませんが、これまでの常識というものは常識ではなくなるのかもしれません。
ぐは・・・話がそれてきてしまった[あわわ/]
つまり僕が言いたいのはこういうことです。
せっかく親から授かった
死ぬまでは生きれるんだ。
君が「終わらせたい」と願っている今日は、
昨日亡くなった人が、生きたいと願った
明日なんだ。

って事です。以上、長文失礼しますた。

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2件のフィードバック

  1. 大学時代も一日も漏らさず日記ですか・・・すごっ[ほうっ/]

  2. 今時の子供たちが死についてどのように考えているかはわかりませんが、他人との有機的な交流が疎遠になり死に対する意識や認識が私たちよりも薄れてきているように思う(あれ、ちらみさんと同じ考えかな?)。
    小・中学校を卒業した今では6年間(3年間)が意外と短かったなと感じ、ただそれだけの期間の出来事だけで死を選ぶにはあまりにも早すぎるように思えてなりません。
    秘められた可能性に挑戦してみようYO!
    あなただけの人生を謳歌してみようYO!